複雑化してきたTPP議論を整理して考えるための4つの大きな軸
野田首相が11月12日にホノルルで行われたAPEC首脳会議で、TPP交渉参加への意志を国際的に表明したことを皮切りに、TVを始めとするマスメディア上でも、今までの「農業 vs 輸出産業」の構図以外のTPP議論も徐々に行われ始めるようになりました。TPPについて最近知り始めた方も、関連情報を追い続けている方も、このTPPの議論が複雑化するにつれて、どの主張が正しいのか・議論的に意味があるのかを把握することが非常に難しくなってきました。そこで今回は、それらの議論を整理して考えるための4つの大きな軸を提案&説明していきたいと思います。その4つの軸とは
- 「関税撤廃の影響」
- 「非関税障壁撤廃の影響」
- 「今後の経済・安保外交戦略に与える影響」
- 「日本政府の交渉力」
になります。最初の3つが本筋の論点で、下に行くにつれて(国家的な)重要性が増してきます。最後の「交渉力」は分野横断的な事項で、残りの3つ軸の議論の中の+/ーを大きく左右するものとなります。TPPの議論を聞く時や行う時には、この議論は上の4つの軸のどれにあたるのかを考えることにより、それぞれの議論の相対的な重要性も比べることができ、TPP全体の是非を検証する上での参考になるのではないかと思います。それぞれの軸の内容を、今までのメディア上の議論での扱いの経緯、重要な論点のリスト、そして全体の判断への影響を交えながら解説していきますので、一つずつ詳しく見ていきましょう。
1.「関税撤廃の影響」
3つの主要軸の中では一番ウエイトが低く、経済全体から見れば比較的小さな影響(内閣府の試算では10年間の累計で+2.7兆円の効果)しか及ぼしません。しかし高い関税で守られている品目の農業にとっては死活問題です。2011年10月中旬頃まではマスメディア上の議論はこのレベルに限定され、「農業 vs 輸出産業」の対立構造に矮小化されていました。未だにこのレベルの議論のみに終始している評論家がマスメディア・ネットメディアを問わず多く残っています。(この軸の議論は、他のメディア上でも散々なされているので、この記事ではあまり深く触れません。また後日別の記事でまとめ直します。)
*農業に与える影響
*輸出産業に与える影響
*TPPとは本来独立した政策との関係
- 農業改革とTPPの関係
- 為替対策とTPPの関係
- 為替問題のほうが関税よりも輸出業に与える影響の深刻度は高い。
- TPPを進めると、為替対策で何か特に有利になる事はあるのか?
- 逆に不利になることは無いのか?
反TPPの一番大きな政治勢力が農協であるために、推進派の中には「TPP反対派は農協&コメ農家がほとんど」という印象操作を行い、「日本の農協や米作は非合理的だし、全然改革が進んでいない。だからその改革のためにもTPPが必要だ。農家が反対するのは自分勝手でおかしい。」という論理的ではない方向で議論が進めているケースを多々見受けます。農業自体は重要な問題ですし、農業政策にも改善の必要がありつつも難航していることは確かです。しかし、TPPは他の議論の軸において、この軸での輸出業が得られるメリットを大きく上回る規模の損害を被るリスクがあります。したがって、たとえTPPが農業にとって問題ないあるいはむしろやや+である事を示せても、それは農業面からの反対論の正当性を崩すことはできても、TPP全体が肯定されるわけでは無いことを確認しておきたいと思います。
2.「非関税障壁撤廃の影響」
経済的・政策的により大きな影響を持ちます。2011年10月中旬頃からようやく少しずつ議論されはじめてきました。海外進出している経団連に加盟している大企業もこの影響の方を重視していると見て間違いないです。また反対派の懸念も大部分がここに関わるもの。マスメディア上では反対派の懸念は紹介されるものの、推進派は「まだTPPの内容は判明していない」「交渉次第」「心配しすぎ」と避けるばかりで具体的な対応策についての言及は見当たりません。また、「ISDS(注1)条項であらゆる国内制度が変えられる」「単純労働者の大量移民」「国民皆保険そのものが無くなる」等の反対派の中でも実現性はあまり高くないと考える人も少なくない主張を特にセンセーショナルに取り上げて、反対派の懸念は「デマ」であると印象づけようとする動きも見られます。(「反対派」の中にもこれらの事を承知の上で煽ってそうな方達もいますが・・・。実現の可能性が全く無いわけではないですし、TPP問題の認知度があまりにも低いので、その問題を意識してもらうためのキッカケとしては仕方ないのかもしれません。)また、マスメディアでもネットメディアでも「非関税障壁の撤廃」によって経済界が得られるメリットの分りやすい説明がほとんど見受けられません。(経団連や各種金融機関・調査組織のレポートレベルでは存在します。)ですので、TPPのメリットが国民的理解を得るためには、この点に関するもっと(マスメディアも駆使した)大々的で丁寧な説明が必要と言えます。
(注1)ISDS = Investor-State Dispute Settlement(投資家国家紛争解決)制度のこと。外国に投資をした投資家(企業)が、投資先の国の政策変更や政変などで損害を被った場合に、投資家が自国の政府を介さずに直接に投資先の国の政府を相手どって、第三者機関である世界銀行傘下の「国際投資紛争解決センター(ICSID)」に提訴することのできる制度。投資家の保護のためには重要な項目で、日本がASEAN諸国などと結んでいるEPAにも含まれているが、米国が結んでいるNAFTAでこれを濫用した訴訟が相次いでいるため(係属中ものも多数)問題視されている。米韓FTAの韓国議会の批准においてもこの条項が最大の問題となり、異常事態の中での批准に至った。
*これからの日本経済が生き残っていくための戦略・ビジョンとはなにか?
*日本経済界の得られる可能性のあるメリット
- <リスクの軽減>
- ISDS条項の導入(政変・政策変更リスク)
- 金融・投資市場の透明化
- 非公開情報(ノウハウ等)の知財の取り扱いの厳格化(技術流出リスク)
- 食糧・資源などの不当な輸出制限の禁止措置
- <市場の開放・拡大>
- 公共事業・インフラ事業の輸出(政府調達)
- 金融市場の開放
- サービス市場の開放
- <利益の最適化>
- 貿易手続きの簡素化(時間と労力の節約)
- 特許・著作権物のライセンス収入の最大化
*日本経済・国民生活に及ぶ危険性のあるデメリット
以前書いた記事の
「TPPについてのメリット・デメリット/Q&Aを必死で考えまとめてみた:その1(イントロ)」
「失業のリスクは農家だけでは無い!TPPに参加すれば企業経営の方針もよりアメリカ型に近づく」
でも一部を既に書きましたが、もう一度まとめ直しますと以下のようになります。
- <金融・投資・買収に関するリスク>(注2)
- <内需や社会的福祉を損失するリスク>
(注2)これらのリスクは米国やその他のTPP加盟国だけからではなく、シンガポール経由で他の多くの国にも適用される可能性が有ります。またこれらのリスクは現状でもかなり現実化されていますが、TPP参加となるとそれがさらに進むということです。)
(注3)State-State Dispute Settlementの略で、国家同士の協定違反の申し立て、訴訟など。(あまりこの名称で呼ばれることは無いが、ISDSに対しての言葉としてここでは使用。)WTOにも含まれており、主に価格ダンピングに対する措置として頻繁に訴訟が起こっている。
*総合判断
- 外交交渉・国内法整備でどれだけデメリットを抑える事ができるのか?具体策は?
- 経済的にメリットはデメリットを本当に上回れるのか?
- もし将来中国とハイレベルのFTAが結べる事がメリットに織り込まれているのならば、その実現性は?
- 平均的な国民にとってのメリットは何があるのか?(デメリットばかりでは?)
3.「今後の経済・安保外交戦略に与える影響」
ここまではTPPそのものによる経済的な影響についての論点でしたが、他のFTA交渉への影響や安全保障戦略に与える影響もTPPの是非を判断する上では重要です。中国がTPP交渉に参加していない現状では、むしろこちらの要素のほうが重要とも言えます。2011年11月上旬になるまでは、なぜかほとんど全くされなかった議論ですが、野田首相のAPEC首脳会議参加の前後ごろからようやくそれらしき議論が始まりました。政府しか持っていない情報や不確定要素が数多くあるため、一般人による議論の決着には限界がありますが、考慮すべき論点をまとめておきます。
*今後の経済戦略・FTA交渉に与える影響で考えるべき点
- まずどの国・経済圏とのFTAを優先的に結んでいくべきなのか?
- (以下は最優先国を中国と仮定して進めますが、他の経済圏の場合はその部分を置き換えて下さい。ASEAN+3/6と読み替えると現在行われている議論により近いものになるかと思います。)
- 最優先が中国ならば、中国にはどのような条件をFTA/EPA等で呑ませたいのか?(以下、例。)
- それらの条件は、そもそも中国にとって交渉可能な条件なのか?
- もし交渉可能でも、その交渉がTPP参加によって有利に運ぶのか?その根拠・理屈は?
- TPPに参加することによって、逆に中国が日本とハイレベルのFTAを結ぶ必要性が薄れる場合は無いのか?
- 同様に、日本のTPP参加によって、米国と中国が対立する経済ブロック作り争いが始まる・加速させてしまうのでは?
- 中国とのハイレベルのFTAを結べたとしても、そのメリットで「非関税障壁撤廃」のデメリットを上回れるのか?
- TPPに入って日本国内の規制をとっぱらった後に、中国とFTAを結ぶと中国にも日本を喰物にされてしまうのではないか?
かなり細かい所まで載せてしまいましたが、これくらいの疑問と検証はリスクの高い外交交渉を考える上では必要最低限ではないかと思います。またこれに関連して、FTAAP(注4)の定義の曖昧さも問題です。日本の国会議員・官僚・経団連などは、FTAAPの実現を全会一致の勢いで賛同しているのですが、それの参加想定国や目指す条件の「ハイレベル」さの定義も非常に曖昧で、本当に現実的な交渉戦略が検討されたのか疑わしい状況です。TPPをFTAAP実現のための手段または土台と論じるならば、まずその定義(=中期的なゴール)をハッキリさせる事が何よりも必要です。
(注4)Free Trade Area of the Asia-Pacific アジア太平洋自由貿易圏。(エフタップあるいはエフタープと日本では読まれている。)「アジア太平洋地域において,関税や貿易制限的な措置を取り除くことにより,モノやサービスの自由な貿易や,幅広い分野での経済上の連携の強化を目指すもの(外務省)」
*今後の安全保障戦略に与える影響で考えるべき点
- 日米安保体制は維持するべきか?(以下は維持するべきという前提で進めます。)
- TPPに参加しない場合、日米安保体制は本当に揺らぐのか?どれくらい?普天間の方が重要では?
- TPPに今参加する場合、米国から何か安保的に特別な恩恵を受けられるのか?
- (それが無い場合、後からの参加検討でも問題ないのではないか?)
- もし受けられるなら、その特別な恩恵を受けないといけないほど差し迫った事態が生じているのか?
- TPPに参加しないと、今までEPAを結んだ国からも資源の供給を断たれるような事態になるのか?
- 逆にTPPに参加した場合は、非常時の資源供給は何を以て保障されるのか?
- (非常時になって、都合の悪い時だけ脱退されたのでは意味が無い。)
- TPPに参加すると米中の緊張がより高まるのではないか?
- 米国の財政が相当不安定な今、TPPに参加すると米国の軍事費を捻出するために相当搾られるのではないか?
- TPPの締結により、米国による経済搾取の強化体制が仮に確立されるとしたら、それは米国軍が日本に駐留する意義をどう変化させるのか?
憲法第9条の縛りがある現状の日本では、日米安保体制の維持は致し方ない事かもしれませんが、果たしてその維持にTPPが不可欠かと言われると、そうと言い切れるような根拠は挙がっていません。これは政府だけが持ち得る情報なので、もしかしたら本当に不可欠かもしれないし、実際には違うがそう思わせる事があるかもしれません。ただ、10月14日にクリントン国務長官が発表した論文(英文)によれば、日本はまだ安全保障上の重要なパートナーと認識されているようなので、少なくとも表向きにはTPPに参加しないからといって日米安保体制が崩れるようには思えません。そこが崩れないのであれば、後は他の論点の重要性とほぼ同じで、TPP参加の是非はそれらの兼ね合いの結果になるのではないでしょうか。
とにかくこの「経済」と「安保」の外交戦略に関する情報は圧倒的に不足しているので、政府や本当の有識者からの情報・議論を求めたいところです。
4.「日本政府の交渉力」
「関税撤廃の影響」・「非関税障壁撤廃の影響」・「今後の経済・安保外交戦略に与える影響」の3つがTPPの議論の上での主要な軸と言えますが、それらと独立して「日本政府の交渉力」というのも重要な軸となります。主要な3つの議論の軸のいずれにおいても+になるかーになるかは、「交渉力次第」の部分が大きく残されています。(これを逆手にとって、TPP推進派は反対派の懸念に具体的に答えられない場合は、「交渉次第」とそれ以上の議論を避ける事が常套手段と言っていい程多いです。)野田首相が事実上の交渉参加の表明をしてしまった現在では、交渉参加の是非を問う意味は薄くなってしまったのですが、途中で止めさせられる可能性もなきにしもあらずですので、この「交渉力』に関する論点もまとめていきたいと思います。
そもそもTPPの交渉で「ルールづくり」に関わる余地がどれだけ残されているのか?
- 交渉に入るまでには今から半年程かかり、TPPの合意は2012年7月を目指すとされている。
- (この期限は米国大統領選前に米国がTPPを締結するためには、絶対に遅らせられないもの。)
- 既に9回の交渉ラウンドが終了し大枠は決定。5回の交渉ラウンドが来年の前半までに予定。
- 日本が参加できる交渉ラウンドは、そこから1−2回が限度では?
TPPの本交渉を米国に認めてもらう前に日米間の事前協議が必要だが、日本の米国に対する交渉力はどれだけあるのか?
- そもそも交渉参加を米国に認めてもらわなければいけないという立場である時点で弱い。
- 野田内閣+官僚(特に経産&外務)はTPP交渉参加に非常に前向きなので、その姿勢自体が足元を見られる。
- 軍事力を米国に依存している立場であるので、構造的に交渉力が弱い。
- 1990年代の日米構造協議の交渉を担当した榊原英資氏によると日米の交渉力は2:8ほど。
- マスコミも全てアメリカに買収されているので世論誘導で米国有利に導かれる。(榊原氏談)
- 今まで米国との交渉で五分以上になったことは一度も無い(=やる度に損をする)。
- 与党内のTPPに対する見解も一致していない状態。
- 野田内閣閣僚全員のTPPに対する認識があまり深くない。
TPPの事前協議・本交渉中に国会議員・一般市民によるフィードバックは反映されるのか?
- 日米間の事前協議はおそらく非公開。ただ関連法案の改正(郵政改革法案の凍結など)等の動きが交渉の前に見える可能性は有り。
- TPP本交渉の内容は非公開。どの時点で公開になるかは判明していないがおそらく締結時まで。
- 非公開の間、交渉内容にアクセスできる人物の範囲(国会議員は知ることができるのか?)も未確定。
- 条約が締結しても発効から4年間は公開されない「密約」も盛り込まれることが決定している。
以上の点から、日本政府の交渉力については推進派の立場から見たとしても「ルール作り」にはほとんど参加できず、日米交渉でも対等な交渉は望めないことは認めざるを得ない状況だと思います。また交渉中の情報はほとんど非公開になる見込みが強い中、一般市民のみならず(閣外の)国会議員によるチェック・フィードバックすら条約締結まで受けられない可能性が大きいです。(野田首相が「関係国との協議を進める中で、メリット、デメリットの議論ができるようにしたい」と語っていましたが、新情報を基にした議論ができる見込みはないのです。)したがって、上の三つの項目で「交渉力次第」となっている点(ほとんど全てですが)は、現段階ではあまり期待は持てないという事になります。(全ての点において負けるという事はないとは思いますが。)
まとめ
TPP議論の主要な論点を4つの軸を基にして駆け足で見てきました。それぞれの論点には更なる詳細情報による補足が必要ですが、議論の全体像を掴むのにはこのような一覧でもお役に立てる部分があったのではないでしょうか?このような議論の枠組みを基にして、今まで出てきたTPP賛成論や反対論、または新情報を分類してみれば、お互いの関連性が見えやすくなり、新しい発見・疑問も生まれやすくなるのではないかと思います。(当ブログや関連ページでも、この枠組みを基にしてTPP関連議論・情報の整理・発表を行って参ります。)
最後に述べておきたいのですが、原則として、現状から非連続的に変化する選択肢を主張する側の方に、そのメリットあるいは必要性とデメリットへの対応策を説明して反対派を説得する責任があると思います。推進派はそれらの責務をほとんど果たさずに「これ以外の選択肢は無い」「反対するなら現状維持(二国間のFTA/EPAを地道に結び続ける)以外の選択肢を提示しろ」と主張するのでは、民主主義のプロセスを無視してると言われても仕方がないのではないでしょうか?反対派の意見が必ずしも正しいとは申しませんが、少なくとも建前だけでもその説明責任を果すというプロセスを経てから事前協議や本交渉に望み、(もし締結された場合には)国会批准の決議に至ってほしいと願います。